2020年より長年勤めていた職場を退職し、主夫ライター兼ブロガーとして時間と場所に縛られない生活を始めました。
嫌な人付き合いもなく自分のペースで生きれる毎日は、まさに自由そのものではあるものの、ラクなことばかりでもないなぁと感じています。
本記事では、自由な生き方を始めて気付いた意外としんどい経験について話していきます。
そもそも自由って何だろう??
実はいざ時間と場所に縛られない生活を始めてみて最初に抱いた疑問は「自由って何だろう??」ということでした。
筆者にとってはストレスになる人間関係もなく、定時出勤もない、毎日が自分に委ねられる日々こそ自由だと認識していました。
しかし、どうやらそれは少しずれた認識だったのかもしれないと思うようになったんです。
自由って人によっては不便かもしれない
きっと多くの方が『毎日の通勤が辛い…』という経験をしたことがあるでしょう。
そしてこう願ったことがある方もいるのではないでしょうか?
「この束縛から逃れた生き方がしてみたい」と。
筆者も長年勤めた職場を退職した際、なんとも言えない身軽さを感じましたが、次第に過去を振り返る機会も増えてきました。
「本当に仕事をやめて良かったのだろうか?」と。
決まった時間に出勤して与えられた仕事さえこなしていれば、少なからず安定した給料と保険は会社に任せておけば困りませんでした。
それが今となっては全てを自分で管理しなきゃいけないんです。
その気になれば全てを放り投げて破滅の道に進むことも可能というわけです。
「自由は気楽」という印象があるかもしれませんが、時として「社会の仕組みに従う気楽さ」も垣間見れるようになりました。
何となくダラダラ過ごしたいと考えているような方にとっては、社会の仕組みって意外と便利な仕組みだったりするんじゃないかなと思います。
心の豊かさを把握しないと退屈になる
好きな時に働いて好きなように生きていきたいって、言葉にするのは簡単ですが現実に再現するの結構大変です。
筆者はたまたま環境に恵まれていました。
子ナシ夫婦の猫2匹家族として生活していますが、ミニマリストという最小限主義な生き方を生活に取り入れた事で、無駄な浪費を極力減らす事ができました。
定義は定まっておらず、あくまで自分自身の基準でもって自発的に物事の数を極力減らし、心身ともに身軽な生きやすさを追求する生き方。
結果「やりたくもない仕事」を手放してもある程度生活できる環境を維持できています。
やや妻に負担が掛かっているのは事実のため、現在は主夫ライター兼ブロガーとして着実に結果に繋げられるよう日々精進している状況ということになります。
目的がないと自由は退屈に変貌する
なんだか自由って言うと何でもできて羨ましいって感じる方もいるようですが、現実はそうでもなかったりします。
筆者の場合はほぼ引きこもり状態です。
気分転換でたまに外に出かけると思うんです。
「自由な生き方ってどこか閉鎖的な暮らしだなぁ」と。
これっておそらくそれぞれの価値観によってかなり異なってくると思います。
「自由なんだからいろんな場所に行ってみたい!」と感じる方もいれば「自由なんだから一日中家で過ごしたい!」と考える方もいて、どちらも間違ってはいないですよね?
仮に「毎日会社に行くのが辛いから辞めたい…」だけが目的となると、それがなくなった途端「今日は何もないから暇だなぁ…」という『ただの退屈』に変換されてしまうんです。
自由な生き方をしてる人ってただ気楽に生きたいんじゃなく、自らの目的のために自由を選択したんじゃないでしょうか。
少なからず筆者は目的のために今の生き方を選択しました。
先ほど「本当に仕事をやめて良かったのだろうか?」とたまに感じるという話もしましたが、その度に心に浮かぶのは「好きなことをするために選んだんだから後悔はない」という気持ちです。
言ってしまえば、別に仕事を辞めなくても自由は手に入れられます。
自らが望んで選択した人生であるなら、それは自分にとって揺るがない「自由な生き方」と言えるんじゃないでしょうか。
自由を手に入れる代償は責任ということ
少し話が大きくなってしまいましたが、結局のところ『自由な生き方には相応の責任も伴う辛さもあるんだな…』ということを、筆者が感じた意外としんどい経験としてまとめさせていただきます。
ただ与えられた仕事をこなし、社会の仕組みに身を任せる人生だって決して悪くはないんです。
それはそれで、一つの気楽な人生の歩き方です。
もし自由に生きたいと考えているのであれば、まずは明確な『目的』を手に入れるべきだと思います。
ただ気楽に生きたいだけなら自由を手にしなくても叶ってしまいますから。
自由とは「自ら選択して行動する」ということを念頭に改めて考えてみてください。